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大榎克己氏インタビュー[vol.1]

-今日はよろしくお願いします。

こちらこそよろしくお願いします。ところで今日は何をお話しすればよいのですか?

-清水エスパルスやサッカーについてですが、それに限らず他にもいろいろとお話しいただければと思います。

そうですか。お手柔らかにお願いします。

-クラブを離れて1年が経ちますが現在はどんなお仕事をされていますか?

今は菊川にある「菊川青葉台医療クリニック」に勤務させていただいています。

-実際にどのような役職で職務内容というものは?

トータルコーディネーターということですが、開業したばかりですからいろいろな方に協力してもらいながら医療法人の業務の届け出や手続きをやっています。
書類関係がとても複雑で難しいので専門家の方にお手伝いいただいてなんとかやっています。

-サッカーとはまったくの別事業で専門的な知識も必要に感じますが?

私はエスパルスに在籍していた時にも「エスパルスクリニック」というものを設立しようとしていましたから詳しい知識はそこまでないですけど、まったくの素人というわけでもなかったですし、エスパルス時代にもお世話になった遠藤友則さん(上土整形外科スポーツクリニック コーディネーター)に相談してアドバイスをいただいたりしました。

-1年勤務されてもう慣れましたか?

そうですね。ただ、デスクワークが主ですから勤務時間が長く感じますね。

-菊川まで通勤されている?

はい。朝7時に家を出て、帰りはだいたい10時頃ですね。高速で往復100キロくらいありますよ。

-ご苦労は何かありますか?

患者さんが多く来ていただくのですが、その全員を診察できていないということですね。ドクターの確保がまだ足らないこと。今いるドクターも整形外科などは9時間も診察してくれていますから大変ですね。患者さんの全員を診てあげられる体制になれば良いのですが新規の患者さんはお断りをしなければいけないのは辛いですね。そういうドクターなどの手配や採用などもコーディネーターの仕事になりますから。

-ところで1年前にクラブを退職する時はクラブからは慰留というか契約の提示はあったのですよね?

一応、同じポジション(クラブリレーションズオフィサー)でのオファーはいただきましたが……

-それを断ってということですか?

そうですね。でもまあ、もう私がその立場でやることはないのかなという想いもありましたので。

-エスパルスやサッカー界から離れることで未練などはありませんでしたか?

いや、少し寂しさはありましたが未練とかはなかったです。今のところは戻りたいという強い気持ちはないですかね。

-やり尽くした感じですか?

いや、そんなこともないですけど……まだ静岡県サッカー協会で副会長をやらせてもらっていますので完全に業界とのつながりがないわけではないですから。

-プロにしてもアマチュアにしても現在の静岡県のサッカーについてはどう思われていますか?

やっぱり……「勝てない」ということですかね。それと少子化ということもあり、サッカー人口そのものが減ってしまっているというとこは非常に気になりますね。

-サッカー人口の減少というのは大きな問題ですが、今後にどうしていくことが良いでしょうか?

サッカーをやる環境を整えるというか、小学生にはクラブチームが存在していますが、中学生になると各学校で11人が揃わないという状況があり、今は2~3校が一緒になって1チームを作っているとか、野球界では中体連の大会にクラブチームの出場可能な環境が整っていますけど、サッカー界はまだそこまでオープンになっていないということもありますね。

-大榎さんが子供の頃はまだクラブチームなどはなかったですからね?

選抜チームとして「清水FC」というのはありましたけどね。各小学校の少年団に登録していて、更にその清水FCという選抜チームでプレーして全国で戦ったわけですから、昔は枠外というか自由に選手がプレーできたと。それが良いのか悪いのかの判断はありますけど、各レベルによって選手たちがプレーする場所を選ぶことができると。確か、まだJのクラブチームをやめて高体連に行くとすぐにはプレーできないルールがあったと思いますけど……選手の中には楽しんでサッカーやりたい人もいるでしょうし、そうではなくプロを目指している人もいるでしょうし、そういういろいろなレベルがあるので、そういうことも含めて「サッカーの街」というのは誰もがいろいろなカテゴリーで楽しめるということで、ただ強さだけを求めるのではなくて、いつでもサッカーが楽しめる街であり、そういう環境作りをやって行かなければと思います。

-そもそもなのですが、大榎さんがサッカーを始めたキッカケというのは?

いや、もう周りの友達がみんなやっていたから。小学校へ行ったら全員が一度はサッカー部に入る時代でしたし、他にやることもなかったし選択肢もなかった時代ですから。それで中学校に行けばいろいろな部活があったので、そこでサッカーとは違うスポーツをやる人も多かったです。

-そうするとそれほど「サッカーがやりたい」ということではなく「みんなが」という?

そうですね。周りがみんなやっているからというのが一番でしたけど、実は町内のソフトボール大会とかに出たくて金属バットを買って出る気満々でしたのですが、当時の清水FC監督だった綾部(美知枝)先生から「小学校を卒業するまで預かっておく」と言われてバットは取り上げられましたよ。まあ、清水FCに選ばれて長谷川健太だったり堀池巧に出会って、そこで刺激を受けたというのも続けられた要因かなとは思います。

-今とは違って当時の練習は小学生とはいえ非常に厳しかったと思いますし、毎日の練習で遊ぶ暇もなかったですが「やめたい」とは思わなかったですか?

それはなかったですけど、私は田舎で育ったので練習に行くのにも時間がかかりましたし、親に送ってもらわないと行けなかったので……ウチの親は農業をやっていて忙しい時季とかには文句も言われたりして。それでも送ってくれていたので、それは子供ながらに申し訳ないなとは思っていました。

-でも、昔の冬はホントに清水でも寒かったし、ジャージなどはダメでどの季節でも短パンでグラウンドを走り回っていましたよね?

そうだったよね。夏でも「水は飲むな」と言われていた時代だったし、それでも隠れて飲んでましたけどね。しかも、練習も反復練習とか面白くない練習が主で、そうしないと技術が身に付かないから仕方なかったのだけど……

-性格的には我慢強いタイプですか?

いや、そんなこともなかったですけど、何か「やらなければいけない」という環境に置かれていましたよ。今考えると追い込まれていただけかなと。

-それでも清水FCへはそれこそ各学校のトップレベルじゃないとセレクションに受からなかったですから、元々の才能はあったのでは?

当時の清水FCは4年生からでしたが、私は3年生で4年生の中に入れてもらいました。まあ、「受けろ」と言われて受けに行ったのですけどね。その当時はまだ「オール清水」って呼んでいたと思います。

-それで高校は清水東、大学は早稲田へ進学されましたが?

まだプロはなかったのですが、当時のトップである日本リーグでサッカーをやりたいというのは思っていましたので、大学を卒業する時には古河(電工)や三菱(重工)とか声を掛けてくれました。日産(自動車)が正式ではないですけどプロ契約があって、読売クラブはプロ契約、それと全日空が個人的にプロ契約をしていて、同級生の東海大の前田(治)がプロ契約でしたね。

-結局、大榎さんはヤマハに社員契約で入りましたけど、プロの道を選ばなかったのは?

まあ、将来のことも考えましたから。当時は「Jリーグ」というは表面化していませんでしたから引退したら普通に社員として勤めようということがありましたので……

-他のチームもあった中でヤマハを選んだ理由というのは?

静岡のチームということもありましたし、荒田(忠典)さんが当時は専務だったですかね、すごく熱烈なオファーをずっといただいていたのでそれも大きかったですね。

 

続く。