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平松康平氏インタビュー[vol.3]

-そんな先輩たちとの思い出というのは?

先輩との絡みは本当に楽しかったですよ。みんな面白かったですね。ケンタさんたちはもちろん大御所でしたし、伊藤優津樹くん(元清水エスパルス)もまだいたし、モリくん(森岡隆三 元清水エスパルス)とかも面白かったですよ。ただ、プライベートでもずっと一緒にいたのは、ケンタさんやカツミさんかな。舎弟みたいな感じで、ほとんどパシリ扱いされていましたけど。あの経験は今考えても良かったですね。いろいろな大人のルールもそこで教えてもらって、それは今も役立っているわけですよ。オジー(オズワルド・アルディレス元監督)やスティーブ(ペリマン元監督)もそうでしたけど…。今、会社をやっていると職員スタッフや周りの人との関りを大事にするとか、やはりそういう部分を当時に教えてもらっていたと思います。それは今のエスパルスにも伝えたいですね。結局、人なのですよ。

-多分、多くの人は平松康平選手といえばエコパ開幕戦の磐田戦のVゴールだと思いますが?

あー、だってあんなチョンゴールでしたからね。あれを一番の思い出と言われても…。周りがそのゴールのイメージをすごく持ってくれているのですが、僕は全然ないのですよ。だってあれはヴァン・ズワム(元ジュビロ磐田GK)がチョンボしたのを奪っただけで、そこまでのプレーではなかったのですよ。

-でも、静岡ダービーで超満員のエコパスタジアムの開幕記念でのゴールでしたから…。

確かに、歓声はすごかった記憶がかすかにありますよ。5万何千人(52959人)入ったけどすごいことだよね。でも、その次の日から僕はサウジアラビアへ遠征だったから、そんなに騒がれていたとか、世間の声とかは知らなかったですよ。

-では、平松さん自身が選ぶ名試合とか名ゴールというものは?

僕自身としては、残留争いをしているときのレイソル戦(2004年11月20日セカンドステージ第13節)ですね。日本平で石崎(信弘 元監督)さんが監督の時…。やはりあの時もシーズン頭から悪くなる前兆というものがすごくいろいろとあったのですよ。詳しいことは話せないですけど、「何か違う力が加わっているんじゃないかな」くらいに思えるようなことがずっと続いてイライラしていて、でもその時にテルくん(伊東輝悦 現アスルクラロ沼津)に「ヒラ、我慢しろ」と言われましたね。ノボリさんにも同じようなことを言われました。23歳の時でしたね。

-あの伊東輝悦選手がそういうことを言うのは、珍しいのではないですか?

珍しいというよりも初めてですよ、僕に対してそういう声を掛けてくれたのは。バスの中でしたね。まだ鮮明にあの一言は覚えていますよ。本当にヤバいと思ったのでしょうね。

-そういう経緯があっての柏戦が印象に残っている?

ずっとキャンプから沸々とした思いがあって、チームも勝てなくて残留争いになって…。その柏戦は途中交代で入ったのですが、ものすごく身体がキレていて、それで決勝ゴールを挙げて勝利して終わった試合でした。残留争いをしている中で、エスパルスが下から3番目の14位で、柏が確かそのすぐ下の15位で、最下位はセレッソ大阪だったかな、そことも勝ち点差がなくて負けたら最下位に転落する感じの試合でしたから、そこで何か自分がチームを助けることができたというか、「チームの力になれた」というのがものすごく自分の中では印象深いゴールになりました。エコパでのゴールも良かったけど、本当にチームが大変な時に点を取れたことは嬉しかったかな。特に89分のゴールだったし、ループシュート気味で柏のゴールキーパーが静岡学園出身の南(雄太)くんだったし、それで残留が決まったので。

-2005年からは、怪我の影響もあってなかなか試合に絡めなくなりましたが?

そうですね。それもありましたけど、ケンタさんの監督1年目でかなりいじめられましたよ。砂浜でダッシュさせられたりして、(清水)東高の部活みたいな練習をさせるのですよ。当時は「本当にこれがサッカーで役立つのか」と、文句を言いながらやっていましたよ。

-選手時代の長谷川選手と監督になった長谷川監督は、やはり違っていましたか?

もちろん。でもそれは全然いいのですよ。まあ僕が悪いところが多分にありましたから、僕がただただ子供だったし、駄目だったので…。やっぱりケンタさんはかわいがってくれていたし、それが分からずにふてくされていましたから、僕が悪かったです。でも当時は、なかなかそれが理解できなかった。今はとても感謝しています。

-そういうことが理解できるようになったのは、いつ頃ですか?

最近です。時間がかかりましたが気付けて良かったですよ。35歳ぐらいになってからですね。エスパルスでは試合に少しは出ることはできていましたけど、なんで代表に定着できなかったかなというところで、代表がすごく強い、そうそうたるメンバーがいた時代だから、やはり代表に定着する選手は、ワンランク上の考え方とか、セルフマネジメントができないと難しかったですね。人の責任にしたりして、結局結果が出ないことは「人のせい」とか…、でもこれって全部自分の責任であって、今考えるともうすべて自分が悪いということです。少しでも甘えがあると、プロでは通用しないのですよ。そこが甘かったですね。今も仕事で働いてもらっている人には言っているのですが、働く場所は提供するけどあとはその人次第だよ…。やっぱり監督が悪いとか、そういう風に人のせいにしているうちは進歩できない。監督が用意してくれる、誰かがやってくれると思っているようだと、それはアマチュアだと。

-フル代表に定着できなかったのは、そういう部分が大きかったと?

各年代の代表には入ってそれなりにやれていたと思いますけど、フル代表で日の丸を背負って国を代表して世界と戦うということは、あの時の自分のメンタルの弱さでは無理だったのだなと。技術的には遜色はないと思いますけど、気持ちの強さや自分のセルフマネジメントができないと非常に難しいなとは思います。

-それはいつ頃気付きましたか?

それも30歳くらいでしたね。それは仕方ないですよ、現役の時は自分が一番だから、自分自身は気が付かなかったですね。

-それでエスパルスは2007年をもって退団して、その後はFC琉球、静岡FC、藤枝MYFCに在籍しましたがいかがでしたか?

良い経験になりましたね。エスパルスの時に、自分がどれだけ守られていたかということが分かりました。「清水の人間」ということで、良い面と悪い面というのはそこで分かりました。だからエスパルスというチームに、清水という地域に、いろいろなところで守られたなというのは、外へ出て初めて分かりました。

-逆に、外に出てそういう経験をしたことも、すごくプラスになりましたか?

めちゃくちゃプラスでしたね。給料も下がるし、やはりその中で自分がやらなければいけない。沖縄などは野球文化だから、自分のことは誰も知らなかったです。そういうところで、自分でもう一度そこから這い上がるパワーはなかったですね、2009年は…。その時の監督の(フィリップ)トルシエ(FC琉球元監督)もメチャクチャな性格でしたから、今考えてもそう思います。それは言い訳とかではなくて、それも政治的なのだと思いますが、お金を払っているスポンサー重視になってしまうところがあったので、そこも歯がゆいところでした。サッカーとは関係ないところで…。あと監督はJ1リーグや代表クラスに言う内容のことを話すのですよ。僕や永井(秀樹)くん(現ヴィッセル神戸スポーツダイレクター)は監督の言っていることを理解できるけど、当時のFC琉球はJFLで、その選手たちにそれを言ってもトンチンカンなのですよ。今までの育った環境やサッカー歴も違う選手たちに話しをしても、分からないのに自分たちは伝えることで満足している感じだったので、「そんなことを言っても全然分かってないですよ。そのレベルではないですよ」と、選手たちの前では言わなかったですけど、あとで(監督に)言ったら、その次の試合からベンチを外されました。

-選手たちに伝わらないことを、首脳陣は分っていないと?

本来それはコーチの仕事だけど、それでも僕はみんなに「アレはこういう意味で、こう動けということ」みたいな感じで説明していました。なかなか大変でしたよ。個人戦術のことを話しても難しかったですね。やっぱりJ1なら当たり前のことですが、J2の選手でもやるレベルのサッカーが違うので、分っていない選手もいますから。そういう意味では、もう少しかみ砕いて初歩のところから言わなければ分からないでしょうね。高校サッカーの全国大会で優勝したから、加入した選手がレギュラーなのですよ。当時はね。

-そうすると、ある程度のレベルでは指導者がすごく大事だと?

大事。ものすごく指導者って大事ですね。アルディレスやペリマンの時に大木武(ロアッソ熊本監督)さんが、その役割をしてくれていました。選手に個人戦術やチーム方針を教えるということは大事なことだと思います。もちろんメンタルの部分もそうだし。

-トップレベルだった選手が指導者や監督になって、そのレベルに達していない子供や選手に伝えることは、実際にできているのですか?

なかなか難しいというのが、正直なところだと思います。選手にもレベルがあるので、ミーティングなどでその伝えたいことを吸い上げるパイプ役みたいな人が必要で、それがコーチの仕事だと。エスパルスでは、今はイチがその役割をやっているようですが、その立場のコーチというのはユースなどではもちろんですが、プロチームだとしてもすごく大事だと思いますね。「育成」という意味では、それはプロになったとしても必要だし大事だと思います。僕は、大木さんや行徳さんにそういう部分を助けてもらいましたから、感謝していますね。

 

続く