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平松康平氏インタビュー[最終回]

-2010年をもって現役を引退したわけですが、引退を決意したきっかけとは?

今でもサッカーは好きですよ。ただ、何かこのまま続けていて良いのかなというのは考えはありました。お金のこともそうですし、奥さんともこの時に離婚したのですよ。そういうこともあって、考えてここでリセットした方が良いのかなと思いました。自分の新たな人生を…。

-でもこれまでサッカー一筋で、別の世界で挑戦するという怖さとか不安というものはなかったですか?

怖さも不安も、一切なかったですね。でも、なぜ自分がプロサッカー選手になれたのかなというのはちょっと考えました。小学校3年生からサッカーを始めて、それで18歳でプロになれて、10年ずっとサッカーをやったのですよね。だから10年間、たとえどんな仕事でも、サッカーをやっていた頃の気持ちで頑張ってやれば、違う分野のプロにもなれるのでないかなと思って…。それで、僕は2014年に介護業界に入って今年で10年なのですが、10年は物にならなくてもいいと思っていました。だからずっと、修行だと思ってやっていました。

-現在の仕事の「介護」の話が出たのでお聞きしますが、なぜ介護の道へ進まれたのですか?

Jリーグである程度キャリアを積んだ選手が、介護業界へ転身するというのはあまりないと思って、人がやっていない職種というか仕事をやりたいというのはありました。どんな仕事でも人があまりやらないことを考えていました。その時に地元の興津で医療機器を取り扱っている社長さんたちと偶然の出会いというものがあって、まだ今でも覚えていますけど、食事をしていたらその店に社長さんも来店されて、「平松くんだよね?」と話し掛けられて、その話の中で「引退しようと思っています」という話をしたら、社長さんが「介護業界に来る気はある?」と誘ってくれたのが、この業界に入るキッカケですね。

-それまでは、介護というのは考えてはいなかったのですか?

はい。まったく考えていなかったですけど、そこでの出会いがなければ今の僕はなかったと思います。

-すごい出会いでしたね?

まあ実は意気投合しちゃって2人でベロベロに酔ってしまい、「オマエ、本当に介護業界に来るか?」と言われて「全然やりますよ」と即答したのですよ。今思うとその場で物怖じして考えていたら、多分この業界には入っていなかったのかなと。慎重になりすぎてしまっていたら…、そこはこの性格が功を奏しましたね。でもその時に社長さんに言われたのは、「金だけ出して施設をやるだけではないぞ」と。「介護の現場に入りなさい」と言われました。その時は「現場?」と思いましたよ、正直。ただそこで思ったのが、「10年は修行のつもり」ということでした。さっきも話したように、プロでもう一つ上で活躍できなかったのはそういうことで、修行して本物を身につけようと。人の意見にも耳を傾けて真摯に取り組もうということに繋がって、「とりあえず10年やってみよう」ということでお世話になりました。

-実際に現場に出てみていかがでしたか?

僕はバアちゃん子でしたから、別に苦にはならなかったですね。お年寄りのいろいろなお世話というものも、「サッカーに比べたら余裕だな」みたいな感じでしたよ。ただ、なんでもそうだと思いますが、プライドが邪魔しちゃう人にはできないでしょうね。サッカー選手のプライドではなくて、仕事に対するプライドを持っていれば、どんな仕事でもサッカー選手ならできると思っていて、だから未だに介護の現場の仕事に対するプライドは良い意味で持っています。けれどサッカー選手としてのプライドは全部捨てましたから、そこはもう関係ないですね。

-それまではJリーガーとしてちやほやされていたのに、そこから完全な裏方へ転身することはなかなか難しくなかったですか?

そこは、修行だと思っていましたから。ずっと現場ということなら考えてしまうけど、ゆくゆくは自分でいろいろなことをやりたいというのはあったので。セカンドキャリアで成功して、次は何かサッカー界へ発信できるように…、というのは思っていました。ずっと介護士職員で終わるつもりもなかったですし、上を目指して自分で経営するというのが目標にありましたから。

-今の会社を立ち上げたのが2018年ということですが、そこのキッカケというのは?

ずっと介護をやっていたのですが、途中で障がいの業界へ移行しました。介護福祉士の資格を取ったところで退職して、そのタイミングで施設をやろうと思ったのですが、介護という現場を経験し、これまでサッカー選手として自分のやってきたことがあまり活きないのかなと思いました。介護は主にお年寄りが相手なので、お爺ちゃんやお婆ちゃんにサッカーや身体を動かす遊びとかはなかなか教えられないじゃないですか。それなら、子供の介護というのはないのかと思ったのですよ。

-なるほど。それで障がい福祉施設の運営を始めたわけですね?

自分が子供の頃に、川とか山とか海で猿みたいに遊んでいたわけですよ、興津で。それを子供たちに教えたかったということです。奥さんのお父さんとお母さんがずっと教員で、特別支援学校の先生をやっていたので、いろいろ聞いたりしました。

-今は放課後デイサービス、ショートステイ、スポーツクラブなどの障がい者施設があるわけですが、運営されての手応えというものは?

自分としては、一緒に遊んでいるイメージですね。「運営」についてはもちろん遊んでいるわけではないですけど、子供たちに何が良いのかというと、興津という環境で子供を育てるということ。それは僕が実体験しているので、あの素晴らしい環境の中で障がい者の子供たちにも教えたいですね。障がい者の子供たちに勉強を教えている施設もあるのですが、ちょっと違うと思っているのですよ。親御さんたちは勉強ができないからそこで学ばせたいというのは良いのですが、根本は「生きる力」とかを養うことだと思っているので…。まさに自分がそうでしたから、サッカーしかやってこなかったこんな人間が、周りに助けられながらだけど頑張ればこういうこともやれるわけですよ。そこをやっぱり一番大事にしていきたいなと。人との関わりとか、挨拶とか、人を大事にするということをこれからもやっていきたいですね。

-興津は自然がある良い環境だとは思いますが、反面危険なところもあると思いますが?

もちろんリスクマネジメントはしています。川に関しても僕はずっと興津川で遊んでいて、何が危なくて何が危なくないかは大体分かっています。天候や時間帯、季節などで違いがいろいろとありますから…。あとは無菌状態のところで子供を育てて、その子が大人になった時の怖さという。本当に菌や危険が何もないようなところで育った子供は、大人になった時に何が危ないのか、何がダメなのかが分からないでしょ。だからちょっとこうしたら危険だよ、こういう場合はダメだよ、ということを理解してもらおうと。別に危険なことをやらせるわけではありませんから。自然と遊びの中でそれを覚えていくというのは、すごく必要かなと思っています。

-障がいのランクもいろいろとあると思いますが、平松さんの施設ではどういう方を受け入れていますか?

重度の子供はほとんどいないですね。発達障がいの子供や、一見すると障がい者とは分からない子供とかですね。そこの子供たちが一番難しいのですよ。一目見て障がいだと分かれば、みんなケアをしてくれます。車椅子に乗っていれば周りも自然と気を遣ってくれますけど、そういう見た目では分からない。非常に難しい子供たちを受け入れています。

-仕事をしていて、充実感というのはどういう部分で感じていますか?

やろうとしていた子供たちを自然の中で遊ばせるとか、それでみんながルールを覚える、社会性を覚えるというのが一番ですね。今年の4月に初めて卒業生を出したのですが、そこで親御さんたちからすごく感謝されたりして…。やっぱり感謝されることは仕事冥利に尽きるので、そこは本当に良かったなと思います。

-逆に、難しいと感じているところは?

難しいなと思っているのは、やはり親御さんたちも変わってくるわけですよ。例えば僕だって年を取りますよね。だから20代の方が保護者となると、その若い保護者のライフサイクルに合った施設を運営していかないといけないのかなというのはずっと考えています。昔は「預かってもらえるだけでいい」と。未だにそういう保護者の方はいますし、「困っているから見てくれればいい。別に支援はどうでもいい」と。でも今は、施設を選ぶ時代になってきたので、「ここの施設では何がやれる」とか、「どんな特色があるのか」という時代になりつつあるので…。でも、うちの施設には自然と一緒に社会性を育てるというコンセプトがあるのでまだいいのですが、そういう施設じゃないところは非常に行き詰まってきている感じはあります。だから今後も、時代に合った施設を運営していかなければいけないということは感じていますね。

-今後の施設の展開はどう考えていますか?

これまでは子供の施設だけでしたので、これからはその子供たちの就労の分野、大人になってからの施設を作らなければいけないと思っています。実は既に就労継続支援に着手しているのですが、あわせてグループホームについては手始めに行って、生涯施設的なものを安定的に供給できるようにと考えています。それによって、やはり親御さんが安心できると思うのですよ。

-昨年から、ラーメン屋も始められたということですが?

父親が以前に「中華園」という店をやっていまして、自分も何かをやりたいなと思って始めました。でも、ラーメンだけではこのご時世難しいかなとも思ったのですが、基本的には、障がい者の子供たちを雇用する就労施設にしていこうと思って始めた部分もあります。あわせて父親の店だったものを利用すれば、父親も喜んでくれるだろうということで始めました。

-お店の評判はいかがですか?

一応、順調というか経営的にはトントンくらいですかね。まあこれから営業時間の変更やラーメンの種類もあまり増やすと大変だけど、少し新しい商品なども考えていこうかなとは思っています。

-ところで引退する時に、サッカー指導者ということは考えなかったのですか?

無理でしょう、僕には。自分のサッカーを人に教えることは、ちょっと難しいと思いますよ。僕が教えたいことは、サッカーであっても「遊び」ですから。体幹トレーニングなどは、グラウンドやトレーニングジムでやるのではなくて、河原の石とかピョンピョンと飛び越えてやればいいのですよ。それでもし転んで骨折をしたら、次からは二度と転びたくないと思って考えてやるはずで、そういう経験が活きるのですね。あわせて川の中の石の色まで確認して、滑らないかどうかという判断力も養えるわけですよ。そういうことが、今の子供たちには必要であり大事だと思います。

-今のエスパルスに対する、平松さんの立ち位置というのは?

100%応援していますよ。好きだし良くなってほしいし、いろいろなことを言うけれどアンチではないですし、本当にエスパルスが好きだから変わってくれないと困る。僕はそこで育ったから、自分の家みたいなものですよ。でも、何か動かないとこのままズルズルとなってしまいそうで、OBとしては歯がゆい部分が多いですね。ただOBの中にはそこに関わっている人たちも多いので、自分の意見と違う意見を言わなければいけない場合もあったりして…。僕はずっとサッカー小僧でいたいのですよ。

-最後に、応援してくれる人やファン、サポーターに向けて一言お願いします。

今はまだ創設していないOB会を作って、地域貢献もやっていきたいなと思っています。正式なOB会をクラブにも認めてもらって、クラブと二人三脚でエスパルスも地域も盛り上げていきたいと。それはやっぱり大事ではないかなと思います。特に地域密着のチームで育った僕としては、地域に今後どういう形であれ、恩返しできる組織をやっぱり作りたいですね。それでエスパルスが大変な時には、僕らもサポートしていくことができればいいかなと。ファンの皆さんとも、選手の時よりももっと近い立ち位置となる組織を作って、喜んでもらえる活動をしたいですね。その時にはファン・サポーターの皆さんにも協力していただければと思います。

-本日は、長い時間ありがとうございました。

ありがとうございました。最後に、さっきも話したように声援は間違いなく選手の力になりますから、スタジアムで良いプレーには拍手と声援、悪いプレーでも後押しをしてあげてほしいと思います。

 

<株式会社BAILA>

 

<明るい施設職員と>

 

 

<らーめん屋 平松>

 

 

プロフィール

1980年生まれ
静岡県清水市(現静岡市清水区興津)出身
清水FC、清水Jrユース、清水ユースで各年代の代表にも召集され、清水エスパルスのトップチームに昇格。抜群のテクニックで将来のエスパルスの「10番」後継者とも言われ、2001年のジュビロ磐田と対戦したエコパスタジアム開幕戦での延長Vゴールはサポーターの記憶に残っている。清水退団後はFC琉球、静岡FC、藤枝MYFCでプレーし2010年を持って引退。現在は株式会社BAILAの代表として「みらいがくいん」、「みらいがくいんフォルマ」、「ショートステイ・カバナ」、「スポーツクラブバイラ」の障がい者福祉施設を経営。2023年には興津の実家跡地店舗で「らーめん屋 平松」を開店し、人気店となっている。