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岩下敬輔氏インタビュー[vol.2]

-そういう岩下さんも、プロになる時にはほぼ横浜F・マリノスに決まっていたのに、鹿児島実業高校サッカー部の監督の一声でエスパルスへ入団したということは有名ですが、そこまでエスパルスに思い入れがあったわけではなかったのですよね?

そうなのですよ。本当は95%くらい横浜F・マリノスに決まっていたのですが、当時のサッカー部の松澤隆司監督が、「お前は清水で決まっているから」と急に言われて、鹿実の卒業生がいないチームはもう名古屋グランパスと清水エスパルスぐらいだから、チームの練習場を貸してもらえるようにしてほしいから、お前はエスパルスに入ってくれ…。という話でしたね。だから、どこのチームでもやるしかないと思っていましたし、お世話になった監督からそういう風に言われたことで、覚悟を持ってやらなくてはいけないというのが僕の信念というか、それは親から言われても頑張るし、自分で決めたことでも頑張るし…。
やるのは自分ですし、どのチームでどういう環境であろうと自分がやるしかないというのは理解していましたね。プロならどんな監督、どんなチームでもやるのが当たり前だと思っていましたから、だから、クラブはもちろん町とかも全然考えていなかったです。

-それでも岩下さんは、エスパルスや清水・静岡も好きになってくれたと思いますが、どこに魅力を感じてくれましたか?

やっぱり「サッカーしかない」ということですね。誤解しないでもらいたいのですが、今はバスケットボールのベルテックス静岡や、2軍ですけどプロ野球のハヤテもありますし、卓球のプロチームとかもあっていろいろなスポーツが静岡にありますけど、当時はエスパルスしかなかったし、「サッカーのまち」ということが
実感できたというか、テレビでも高校サッカーの試合を準決勝から放送したり、小学生の大会でもやっていたりしていましたよね。あとサッカー番組というかスポーツ番組が各局にあって、エスパルスが勝てば視聴率が良かったという話は何度も聞きましたから、やっぱりサッカーを、エスパルスを気にしてくれている人が、他の町に比べて圧倒的だったと思います。だからそういう町だったからやりがいも感じていましたし、「みんなから見られている」という意識が高かったのは、この地域ならではですね。

-ただ、町を歩いていても「岩下選手だ」とプライベートでも騒がれたりして、嫌ではなかったですか?

いや、それを言われているうちがいいわけで、そうやって歩いているだけで声をかけてもらえるような選手になれればと思っていましたし、もちろんプライベートという意味では良い面も悪い面もありましたけど、プロの選手としてやっている以上は、そのくらいにならないとダメだと思いますけどね。まあ、今も試合に出られていない選手でも、「俺はどうせ知られていないからどうでもいい」なんて思っている選手はいないと思いますよ。逆にいつも注目されているという意識を持ってやってほしいし、そのくらい有名な選手になってやるという気持ちでやらなければいけないと思います。そこは僕のモチベーションにもなっていましたから、逆に良かったかなと思います。

-鹿児島と清水、静岡は特産物や雰囲気が似ているところがあるというのも、馴染めた要因なのですかね?

僕は18歳まで本当にジャージとサッカー部の服しか持っていなくて、遊ぶところも時間もなかったので、私服なんて持っていませんでしたから、本当に毎日ジャージで暮らしていました。ウチの高校は原チャリ(原付バイク)での通学が許可されていたのですが、家と学校の往復だけですよ。だから、いろいろと社会のことを知ることができたのは静岡に来てからなので、僕にとっては静岡が地元と言ってもいいくらい清水も静岡も知っているし、逆に鹿児島の街中などは全然知らないですから。地元の人が知っている美味しい店とか穴場なんてまったく知らないので、「鹿児島のおすすめ教えて?」と聞かれても他県から鹿児島へ来る観光客と同じくらいしか知らないですし…。だからこそ静岡・清水に愛着があるし、知り合いも静岡の方が多いということは胸を張って言えますね。

-そうすると、清水に来て良かったと思っていただいていると?

清水に来ていなかったら僕が選手としてここまでやれていたかはわからないですし、マリノスや他のクラブへ行っていたら、ここまでにはなっていなかったと正直思っているので…。あとは本当にその巡り合わせですよね。小野伸二さんとも会えていなかったと思うから、そういう意味では凄く良かったなと思います。でも結局は他のクラブに行ったとしても必死にやっていたとは思いますけどね。

-ところで、引退を決めたのは足首の軟骨が原因だと聞いていますが、人口関節などで対応はできなかったのでしょうか?

人口関節は一般の方が日常生活を送るためのもので、それでも2、3年しかもたないらしくて、プロアスリートが入れても2週間くらいで擦り減ってなくなってしまうらしいですよ。だから無理でしたね。ただ今もメチャクチャ痛いですよ。ちょっと歩くだけでも痛くて、「痛風?」と思うくらい痛いです。血も水も溜まってしまうし、日常生活でも大変な場面は結構あります。

-そうすると一種の職業病みたいなものですか?

そうですね。選手は結構多いですね。

-先ほど名前が出ました小野伸二選手とは、エスパルスで一緒にプレーされています。凄い選手だったと思いますが、小野選手の凄さというのは岩下さんから見てどんなところでしょうか?

僕が言うのもアレですけど、人の良いところを探すのが得意ですね。人って悪い部分に目が行きがちですけど、(小野)伸二さんはそれもわかった上で、その人の良い部分を引き出してあげるのが上手でした。プレーの中で、その選手の良いプレーを引き出してくれるのは当然でしたけど、プライベートの普段の生活している中でもそういうことができるというのは、凄いなと思っていました。まだ付き合いが長くない選手や人に対しても同じようにできるのも、凄かったですね。

-いろいろな面で、小野さんからは影響を受けましたか?

僕が小野伸二と一緒にいて良かったと思うのは、人との繋がりを大事にしなければいけないということを教えてもらったことです。それで人脈も広がりましたし、あの人のおかげで出会えた人というのが物凄くいるので、それが今の財産になっていますし、そこはお金では買えないものなので…。
いろいろなところに一緒に行かせてもらって、いろいろな人に会わせてもらったことは大きかったです。

-その他で影響を受けた選手というのは誰かいますか?

それぞれのチームにもちろん凄い選手がいっぱいいましたし、ガンバならさっきも名前を出した加地、明神、あと今野泰幸(南葛SC)がいましたし、年下でも宇佐美貴史(ガンバ大阪)、堂安律(SCフライブルク)。他のチームでなら福岡で一緒だった山瀬功治(レノファ山口)、駒野友一(サンフレッチェ広島スクールコーチ)、坂田大輔、それこそ井原(柏レイソル監督)さんとか、それぞれの立ち位置で一緒にプレーした人もいれば、監督としていろいろと話をさせてもらった人など、みんなから影響は受けましたね。鳥栖で言えば、今はエスパルスにいる原輝綺とか、豊田陽平(ツエーゲン金沢)、フェルナンド・トーレスとも一緒にやりましたし、それぞれのクラブにそういう選手たちが存在していてチームを支えていましたし、それ以外の選手からでもいろいろな意味で影響は受けましたよ。

-岩下さんの憧れの選手、目標にしていた選手というのは?

憧れですか…。それこそ伸二さんは僕の高校サッカーの時のイメージキャラクターをやっていましたから、「この人はやっぱり凄い人なんだな」とか、もちろんテレビでいっぱい見ていた選手と一緒にプレーできたのは嬉しかったです。森岡隆三(クリアソン新宿のフットボールアドバイザー兼クラブリレーションズオフィサー)さん、トシ(齊藤俊秀 日本代表コーチ)さん、テル(伊東輝悦 アスルクラロ沼津)さんなどはワールドカップに出た選手だし、その選手たちと一緒にプレーできたことは、当時は当たり前のようにやっていましたけど、ワクワクしてやっていたし、プレーしていても話をしていても楽しかったし、そういう選手たちと一緒にやれているという嬉しさを感じていましたね。それが憧れと言えるのかわからないですけど。

-監督も何人かの下でプレーされましたが、理想の監督像についてはどう思われていますか?

僕の中でのいい監督というのは、監督の狙いとか意図ばかりを選手に伝えない人なのかなと思っていて、伝えなければいけないことは強めにでも伝えなければいけないと思いますけど、でもやるのは選手なので、その選手のモチベーションの上げ方が上手な監督がいいのかなと。今海外でやっている冨安健洋(アーセナル)や堂安も、「監督が僕らの良い部分を引き出してくれているからやれている」といつも言っていますから、それは世界共通の部分なのかなとは思いますね。

-長く一緒に戦った長谷川健太監督はいかがでしたか?

僕としては凄く自分に合っていた監督だなと思っています。やっぱり、ガンバの時とエスパルスの時は違いましたし、今は名古屋で監督をやられていますけど、多分その振る舞いも発信の仕方もまた違っていると思います。ただ健太さんも「俺はこれをやりたい」ばかりではなかったですし、今も健太さんがリアクションをしてやっているんだなというのは感じられますね。健太さんとしての監督像というものがあるとは思いますけど、その中でその時代に合わせた、今いる選手に合わせたマネージメントがやれているだろうなとは思います。

-エスパルス時代とガンバ時代の、長谷川監督の違いというのは?

「余裕」というのが違いましたね。やっぱり、選手へのコンタクトの取り方や試合中のコーチング、ハーフタイムでの発言などは、特にガンバで初タイトルを取ったあとは、冷静さや落ち着きが際立っていたかなと思います。

-岩下さんが加わり、長谷川監督となってガンバ大阪が3冠達成して黄金期を迎えたわけですが、あの頃のガンバ大阪の強さというのはどこにあったと思われていますか?

それは「タイトル慣れ」だと思います。今も思いますけど、エスパルスが健太さんの3、4年目くらいにタイトルを1つでも獲得できていたら、もしかしたらエスパルスも凄いクラブに、タイトル慣れしたクラブになっていたと思いますね。結局、その状況に慣れている選手が多いクラブが更に強くなるのだと思いました。川崎フロンターレも1つタイトルを取ってから常に上の順位にいて、タイトルを獲得し続けられていたのはお金というか資金の部分だけではなくて、それに慣れた選手、クラブが自然とそれに対してのリアクションが取れるようになったのではないかなと思います。クラブとしても「タイトル、タイトル、優勝、優勝」という力みがなくなって、それが選手にも伝わって良い循環ができるようになると。エスパルスの時はいいところまで行ってもそこでクラブが浮足立つというか、そういう雰囲気が伝わってしまう部分はありましたね。

-今更ですが、当時のメンバーでなぜタイトルが取れなかったのか不思議でしたね?

いや、本当ですよ。3冠をとった時のガンバのメンバーにだって負けないくらいの選手は揃っていたと思いますよ。リーグ戦などはほぼ1桁順位だし、そのくらいの数字は残せていたので…。だから本当に最後に失速した時(2010年)も、「もう1試合勝てていれば」とか「あのワンプレーが」というレベルの話なので、そこで軌道修正できなかった選手も、監督、スタッフ、チーム関係者も、もっとみんなが自分に矢印を向けてやれていれば…、とは思いますね。

-2010年は、夏までは好調で「今年こそは」という感じでしたが、そこからズルズルと落ちて行ってしまいました。今だから話せる原因というものはありますか?

いや、夏場の中断期間にメチャクチャ走ったことと、ワールドカップがあってその中断期間が長かったということで、あの時は上手くやれていので修正することがなかったというか、エスパルスは個々のレベルアップに時間を割いたのですよ。だけど、その他のチームはエスパルスを倒そうということで、対エスパルスという修正ができたのだと思います。その差が中断明けに出てしまったと。あの中断期間があったおかげで修正できたチームは結構ありましたけど、その差だけだと思いますけどね。僕らは何も変える必要がなかったので、相手が修正して来た時にリアクションを取ることができなかったかな…。とは思います。

 

続く