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平岡康裕氏インタビュー[vol.3]

-平岡選手が入団した時はディフェンスには良い選手が揃っていましたよね?

そうですね。僕ら新人が3人入って、その時のセンターバックのレギュラーが森岡(隆三)さん、(齊藤)俊秀さんで(高木)和道くんもいて…。高校時代に練習参加をさせてもらった時にもレベルの差は感じましたけど、対人の強さや球際の激しさ、あわせて基礎的な技術差というものは高校レベルとは格段の違いがあったので、正直「俺、やっていけるのかな」というのは思っていましたよ。

-入団した頃はそう感じたものが「やっていける」と変わったのはいつ頃なのですか?

結構時間が経ってからですね。4年目に1度レンタルで札幌へ行ったのですけど、そこから帰って来たぐらいですかね。やはり、僕はずっと静岡の中だけでサッカーをやっていましたから、初めて静岡を出て静岡以外のところでサッカーをやって、いろいろな選手、指導者、関係者と触れ合うことで静岡とは違う風を感じられたことが大きかったと思います。

-そこが最初のターニングポイントとなりましたか?

そうですね。札幌から戻った年にはそんなに試合に出ることはできませんでしたけど、健太さんの最終年となった2010年にはそれなりの出場機会を得ることができたので…。1年間でしたけど札幌への移籍が僕にとってのターニングポイントだったかもしれないですね。

-平岡さんは子供の頃は野球もやられていたのですよね?

サッカーをやりつつ中学校で野球を3年間やっていました。中学では「西富士フットボールクラブ」というクラブチームで週4回くらいサッカーの練習を18時くらいからやっていて、部活として中学の野球部に入っていました。クラブの練習がない日はそのまま部活をやって、クラブの練習日は学校の授業が終わってから17時半くらいまで野球部で練習をしてからサッカーをやりに行っていました。

-今で言うところの「二刀流」ということですが、平岡さんとしては野球とサッカーではどちらが楽しかったですか?

それはもちろんサッカーですよ。部活としてサッカー部に入っても良かったのですが、「中体連とクラブチームの2重登録はできない」と先生に言われて諦めました。じゃあ部活はどうする?となったときに、父親が野球をやっていたので、野球部の顧問の先生に相談したらクラブチームの練習に参加できるように融通を利かせてくれて野球部に入りました。

-中学で野球をやったことで、サッカーに生かされたことは何かありますか?

基本的には別のスポーツですからそこまで多くはないですけど、空間認知能力というのは共通ですからね。野球のフライを捕るときの落下点へ入る感覚はヘディングする際にも同じというのはあったと思います。

-身長は当時から高かったのですか?

そうですね。中学に入学する時に163cmくらいで、卒業する時には178cmくらいになって、高校でも2,3cm伸びた感じでした。

-ポジションはどこでしたか?

小学校がFWで、中学で中盤のトップ下とか…。それで高校からDFですから段々と後ろに下がって来る、サッカー選手あるあるですね。

-実際に平岡さんとしてはFW、中盤、DFはどれがやりたかったですか?

そこまでの拘りというものはなかったですね。中学生の時に清商(静岡市立清水商業高等学校)の練習に参加させてもらった際に、大滝先生から「DFをやるなら推薦してあげるから来い」と言われました。「あっ、DFでならば推薦がもらえるのだ」ということで「お願いします」みたいな感じでDFとして清商に入りました。

-推薦をもらえたということもあったかとは思いますが、根本的になぜ清商を選ばれたのですか?

漠然とですが、高校サッカーを観ていたらやはり当時の清商は強かったですし、親が清水の出身ということもありましたので、知り合いにお願いして練習参加をさせてもらって…。そのまま入学したということです。

-清商の同期ではどなたがいますか?

いや、多分わからないと思いますよ。自分の同期は誰もプロになっていないですから。1つ上の学年に水野晃樹さん(いわてグルージャ盛岡)、2つ上には菊地直哉さん(サガン鳥栖ヘッドコーチ)、今年エスパルスのフロントに入った筑城和人さん(清水エスパルス強化担当)がいました。僕らの年は成績もダメで、インターハイはそれこそ赤星の藤枝東に負けたと思います。特にあの時は藤枝東との相性が悪かったです。あと選手権でもトーナメントの1回戦で予選を勝ち上がって来た勢いのあるチームに負けてしまうという結果でしたね。

-そんな高校生活の中でプロを意識し出したのはいつ頃でしょうか?

僕は遅かったですね。エスパルスからオファーが来たのが3年生になってすぐくらいだったので、自分としてもオファーが来てから意識した感じですね。

-エスパルスの練習参加は2年生の時にしていたのですか?

いえ、3年生になってからですから、オファーをいただいてから練習に参加しました。当時は(興津)大三さんが僕のスカウト担当でしたから、大三さんから「練習に参加して」という話をもらいました。

-エスパルスからオファーが来たことについてはいかがでしたか?

正直嬉しかったですけど、その時は「自分でもプロになれるのか」というのは思いましたね。「絶対にプロになりたい」という強い思いというものはなくて、清商の企業との繋がりでHondaサッカー部とか社会人チームに行くつもりでしたから、プロサッカー選手というのは意識していなかったです。でも、高校生になってから選抜チームや年代別の代表に呼ばれるようになっていましたし、「プロサッカー選手になりたい」という夢は子供の頃から漠然とはあったので、オファーをもらい、自分でもプロになれるんだ、と意識してから、「なれるのであればチャレンジしてみよう」という気持ちに変わったと思います。

-エスパルス時代の平岡さんの中でのベストゲームというのはどの試合でしょうか?

それはリーグでのデビュー戦(2006年5月3日第11節)ですね。ホームでのセレッソ大阪戦で俊秀さんと一緒に出た試合です。それまで出ていたアオが捻挫か何かのケガで出られなくなって、自分が起用されるタイミングをもらえたんですけど…。デビュー戦で完封(1-0)して勝てたその試合が一番印象に残っています。

-その時はどんな気持ちでしたか?

それまで、ナビスコカップとかはちょこちょこ出させてもらっていましたけど、リーグ戦のしかもホームゲームに出ることができたので、ただただ緊張していましたよ。それでも自分が思っていた以上にやれたという手応えは感じました。でも、やはりゴール前での強さという部分は出せなかったという印象はありました。そこはプロになってからずっと健太さんに言われていたところなので…。どうしても体格面で線が細かったので、J1のFW、外国籍選手なんかは強烈でしたから、「そこが強くならないとセンターバックとしては使えない」というのはずっと言われていました。逆にアオなどは同じ年とは思えない筋肉質で出来上がっていましたから、体重差も10kgくらいあったんじゃないですか。

-そこはどう克服したのでしょうか?

まあこればっかりは、先輩から盗むというよりは自分のフィジカルの問題でもあったので、自分なりに体重を増やしたり、筋トレをやったり、とにかくウエイトを上げる努力をしました。入団した当時の僕の体重は65kgくらいしかなかったので、そこは自分がプロとしてやっていく上での最重要課題と捉えてはいました。タイプ的には森岡さんが自分と似ていたので、もちろんトシさんからのアドバイスを受けることもありましたけど、プレースタイル的に模範としていたのは森岡さんでした。

-森岡さんは日本代表にも選ばれるほどの選手でしたけど、平岡さんから見た森岡さんの凄いところというのは?

森岡さんは、センターバックとしてはそこまで身長(180cm)があったわけではないですよね。あの身長でしたけどその代わりに足元もあって強さもあるという…。まあ代表選手なので当たり前なのですけど、すべてにおいて平均値以上のレベルの選手ということで、自分が目指す選手像でした。

-森岡さんも平岡さんも頭を使ってプレーされていた印象がありますが?

そうですね。自分の弱点は理解していたので、そこは相手に悟られないようにしたかったのでそういう風に見えたのかもしれないですね。上手くごまかしながら、弱点がバレないように目立たないようにプレーしていましたよ。

-長谷川監督からアフシンゴトビ監督に変わってから、更に平岡さんはレギュラーとして起用されていたと思いますが、平岡さんから見てゴトビ監督はどのような監督でしたか?

自分としては「すごく良かった」とまではいかないですし、接しづらさは多少ありましたけど…。でも、やることはハッキリとしていたのでやりやすさはありました。選手のチョイスについては、監督ですから誰も何も言えなかったですけど、やろうとしていたサッカーはそこまで難しい細かな戦術はなかったですし、ハッキリしていたので選手としては迷いなくプレーできていたのではないかなと思います。ただ、最初の頃は感じていなかったですが、年々やっていくうちにサッカーとは別の部分でちょっとあったので、そこで難しくなってしまったという感じですね。最初の頃は悲観する内容ではなかったですし、満足できる順位ではなかったですが、それでも中位くらいにはいつも収まっていましたからね。サッカーそのものが面白かったかと言われればどうだったかなとは思いますが、でも選手としてはシンプルだったのであまり難しいことを考えないでやれていたというのはありましたね。あと勝ちに徹していた印象はありました。

続く