-エスパルスユースからプロ選手に昇格してからはいかがでしたか?
3日目でくじけました。
-早くないですか?
いや本当に3日もったかどうかでしたよ。
-何が一番ショックでしたか?
とにかくボールが収まらなかったです。練習をやっていても‟全然できない”というのがありましたね。そこから体に異常が出てきて、「俺、こんなにも動けなかった?できなかった?」となり、どんどん下手になっていきました。
-それでも、練習のミニゲームや練習試合では点を取れていた記憶がありますが?
そこだけが救いでした。でも、やっぱり波があって1ヶ月間何をやっても点が取れない時期がありました。シュート練習ですらゴールに入らないという…。本当にあの頃は泣きそうでしたよ。それでも、少し経つとシュート練習でも決まり出したり、練習試合で1点が取れたりするとまた波に乗れたりしていましたね。僕の精神安定剤は得点でした。
-ユースから昇格してプロで感じた違いというものは?
スピード感ですね。ポゼッション練習や技術的なことにも全然ついていけなかったです。3日目でしたけど本当に「無理だわ」と思ってしまいました。だから、この厳しいプロの世界で生き残るにはメンタルは大事だなと。それは今の子供たちにも言えますけど、成長が遅い子というのは少しメンタルが弱かったりして…。中には、上手くやれないことを周りからいろいろと言われて、自覚もしているから逆にどんどん落ち込んでしまい悪循環になってしまう子供もいます。これは自分も経験したことで理解できますから、フォローもしっかりとやっています。でも子供のメンタルというのも難しくて、何かのキッカケで上手くできたりすると、そこから急にメンタルが強くなったりして、自信がつくというか失敗しても成功体験があるからくじけずに続けられるという…。こうして子供って日々成長していくのかなとは思います。
-プロ時代に落ち込んだ時にはどうされていたのですか?
エスパルスには毎日の練習でも何人かの番記者の方がいたので、僕では記事にならないけれど練習終わりに話を聞いてもらっていました。そこは救いでしたね。
-加賀美さんはメディアの中でも応援したくなる選手の一人だという話もありましたし、ファンサービスも丁寧にやられていたと思いますが?
そうですね。ファンサービスは移籍して来た(村田)和哉 くん(ヴィアベンテン滋賀)が率先してやっていたので、そこから今までより丁寧に対応するようになりました。
-入団された時の監督はどなたでどのような監督でしたか?
当時は(アフシン)ゴトビ監督でした。なかなか難しい監督さんでしたけど、一緒にやった2年間はまったくのノーチャンスでしたね。紅白戦にすら出られないというのもありましたし、別グループ扱いで玄太と一緒にシュート練習などをやっていました。でも、玄太は年代別の代表に呼ばれてから少しチームでも使われるようになりましたね。玄太の実力も上がったからだとは思いますけど…。それに比べて今の秋葉(忠宏)監督は、練習試合や練習で結果を出した若手選手を試合のメンバーに入れてチャンスを与えていますので羨ましいですね。やっぱりベンチに入るとか、短い時間でも公式戦に出ることは若手選手にとってはすごく大事なことだと思います。先日の藤枝MYFC戦(2024年9月22日J2第32節)でも(西澤)健太が久しぶりに起用されて活躍したじゃないですか。健太は若手ではないかもですが、見事に期待に応えましたし、キッカケを与えてくれることで選手も頑張れると思います。
-その後は大榎克己監督(静岡県サッカー協会会長)が就任されて公式戦に初出場されましたが?
そうですね。大榎さんはそういうチャンスをくれましたね。天皇杯(2014年11月26日準決勝ガンバ大阪戦)もナビスコカップ(2015年5月27日予選Bグループ第6節ヴィッセル神戸戦)も1試合ずつでしたがそれぞれで得点もしましたし、J1チーム相手でもチャンスメイクもできるところはアピールできたと思うのですよね。僕は周りに生かされるタイプでしたから、和哉くんがサイドを切り開いてくれた後に、中でクロスを待っているだけでしたよ。そこで結果を出したので、もう少しチャンスをもらえればというのは思ってしまいましたね。得点した天皇杯の次のリーグ戦で(長沢)俊くん(大分トリニータ)がケガ明けで戻った試合だったのですけど得点して「あー、またチャンスが遠のいた」と思いました。当時は(大前)元紀くん(南葛SC)から「俺もそういう時があったから頑張れ」と慰められました。
-リーグ戦にも1試合に出場し、これが唯一のホームゲームということでしたが?
そうですね。シーズンも終盤の柏戦(2015年10月24日J1セカンドステージ第15節)の後半途中からの出場ですね。でも試合のことは全然覚えていないのですよ。他の天皇杯もナビスコカップの試合も覚えていなくて…。天皇杯で得点した時も石毛と抱き合っていたということも、後日に写真を見て知りましたし、ナビスコカップの時も、試合後にスタンドでサポーターが「花を咲かせろ」と掲げてくれた横断幕のことも見てはいたと思いますけどその時はよく覚えていなくて…。ですからJリーグのアイスタで出た時にも初めて大勢のサポーターのいるホームのピッチに立てたことで頭が真っ白でした。でも、最終ラインまで戻ってボールを受けて、白崎(凌兵)くん(町田ゼルビア)にパスしたら怒鳴り散らかされたのだけは覚えていました。あと天皇杯でも金子(翔太)(ジュビロ磐田)や(水谷)拓磨(ブラウブリッツ秋田)とかと一緒に出ていたので(高木)善朗くん(アルビレックス新潟)に「おまえら舞い上がるな!」と怒鳴られたのも覚えていましたね。人間って良いことよりも怒られたことの印象の方が強いのだなと。
-試合を覚えていないということですが、エスパルスで印象に残っている試合というのはどれになりますか?
実際に出場したのは3試合ですけど…。どれも捨てがたいですね。初ゴールは天皇杯、でも勝った試合はナビスコカップ、アイスタでの出場はJリーグだったし…。でもやっぱりナビスコカップですかね。石毛からのアシストでゴールを決めたということもありますし、相手のガンバ大阪はまあまあのメンバーでしたけど、ウチは若手中心で臨んだ試合だったのですが意外にやれたという思いもありました。
-試合以外でエスパルス時代に印象に残っていることは何ですか?
いや、もう「しんどかった」ということしかなかったです。本当にサッカーが好きではなくなりそうでした。
だから自主練習も率先してやれていなかったですね。本当にメンタルが弱かったです。ユースまではプレーもそれなりにやれていたと思っていたのですが、トップに上がってからは「全然やれていない」と自分でも思いましたし、周りからもダメ出しの連続でした。それは自分が下手だから仕方なかったので…。ただ、自分でミスをして気持ちが落ちるし、そのプレーを見た周りからのため息も追い打ちになっていました。楽しいとか嬉しいというよりも辛かったことの方が印象に残っています。
-2015年の途中から鄭大世選手がチームに加入しましたが、同じFWということで何か参考になったことはありましたか?
(鄭)大世さんと一緒にいていろいろと見せてもらったというか、直接のアドバイスというよりはプレーを見て勉強しようとずっと見ていた覚えはあります。大世さんも僕の点を取る能力はすごく評価してくれていましたし…。確かリキ(杉山力裕)さんと何かの対談で大世さんが、「加賀美は(フィリッポ)インザーギみたいに点を取れる」と。「そこだけは自分よりもすごいかもしれない」と言ってくれていたのは嬉しかったです。
-同期の選手はまだ皆さん現役ですか?
僕だけですね活躍できなかったのは。六平くんが去年で引退したのであとはみんなまだ現役ですね。今はみんなエスパルスにはいないですし、エスパルスではそこまで活躍できなかったですけど…。瀬沼くんも大学生で来ていた時には点も取れていましたけど、実際にエスパルスに入ってからはなかなか結果が出なかったのです。今はSC相模原でプレーしていて、他のクラブを渡り歩いて8チームくらいでプレーして来たことはすごいことですよ。息吹くんも同じですよね。プロとして長く現役でプレーできているということは、エスパルスでは咲かせなかったけどポテンシャルというものはあったということなのですよね。
-同期の皆さんの多くがまだ現役を続けているということで、エスパルスは良い選手を獲得できているけどなかなか育て切れていないような感じもしますが?
そうですね。ただそこは難しいところでもあります。チームや選手を起用する監督と合う、合わないということもありますからね。ただ、当時から監督も毎年変わる、クラブもエスパルスをどういうチームにしたかったのか分からなかったというのは多少ありますけど…。
-2016年6月に藤枝MYFCへ期限付き移籍となって、そのままエスパルスとは契約満了となりましたがその時の気持ちというのは?
「終わった」と。22歳で戦力外通告は厳しかったですね。期限付き移籍した時に、藤枝で結果を残せなかったので覚悟はしていましたけど…。後悔しているわけではないですが、もう少し移籍を早くしていればと。もちろんレベルの高いところでやった方が自分も伸びると信じていましたし、練習試合では点も取れていたので「いつかは」と思っていました。カテゴリを落としても公式戦に出るという決断を早くしていれば、またその後は変わっていたのかなと思ったこともありましたね。
-サッカーは続けたいと思いましたか?
サッカーしかやって来てなかったですし、まだやれるという思いもありましたから這い上がるチャンスはまだあると思っていました。それでJAPANサッカーカレッジへ行って、当時 田坂(和昭)(上武大学男子サッカー部監督)さんが福島ユナイテッドFCの監督をされていたので練習に参加させてもらったりして、その他のJFLのチームにも参加したりしたのですが、獲得してもらえずに「厳しいな」と現実を感じましたね。
続く